卒論「『無名抄』の執筆意図」第三章(3/4)

第三章『発心集』と数寄往生


第一節『発心集』について

 『無名抄』の成立は、十八話「関清水事」にある「建暦の初めの年十月廿日の頃三井寺へ行く」という記述を信用すれば、建暦元年(一二一一)以降ということになる。『発心集』の成立は通常『方丈記』が成立したとおもわれる建暦二年(一二一二)の二三年後が想定されている。両書は、多くの説話を集めるという性質上、長い年月をかけて編纂されたと考えられる。『発心集』に盛られた心情や精神は、そのまま『無名抄』執筆時の心情や精神と重ね合わせて考えることができるだろう。ここでは『発心集』の思想から、長明の思想を読み取り、『無名抄』執筆の意図につながる手がかりを考察したい。

 『発心集』は『日本往生極楽記』などの「往生伝」を参考に書かれているとされる。長明の時代には、すでに多くの「往生伝」が成立しており、池田敦子(7)によれば、先に挙げた『日本往生極楽記』のほかにも、『法華験記』『続本朝往生伝』『拾遺往生伝』『後拾遺往生伝』は長明が確実に読んでいたとする。そして池田は、その内容について

「往生伝」の存在が『発心集』編集の動機付けとなったことは間違いなかろう。『発心集』も、往生に失敗した説話を入れながらも、まさに「往生伝」であることは一読すれば了解できることである。しかし書名の『発心集』が示す通り、彼の関心は往生できたか否かより、如何にして往生し得たか、あるいは如何にして往生につながる「発心」をし、それを持続し得たかというところにあると思われる。

と述べる。『発心集』序にも

定めて謬りは多く、実はすくなからん。若し又、ふたたび問ふに便りなきをば、所の名、人の名を記さず。云はば、雲を取り、風をむすべるが如し。誰人か是を用いん。物しかあれど、人信ぜよとにもあらねば、必ずしも、たしかなる跡を尋ねず。道のほとりのあだことの中に、我が一念の発心を楽しむばかりにや、と云えり。

と記されている。一概にこれが長明の本心ということはできないが、『無名抄』とは異なり、自身の道心を鼓舞激励するという執筆意図があったことは明らかである。では長明の道心、往生観とはどのようなものだったのだろうか。


第二節『発心集』の往生観

 服部七郎は、『発心集』中一〇二の説話を五つに分類した(8)。即ち、

A.逐電遁世
B.発心往生
C.執心
D.数寄
E.逸話奇聞

の五つである。序文における長明の「賢きを見ては、及び難くとも、こひねがふ縁とし、愚かなるを見ては、自ら改むる媒とせむとなり」という言葉から、「道心の鼓舞激励」という『発心集』の観点に立つと、Aが最も重要な内容であり、Eが最も軽い内容であるとする。逐電遁世の説話が長明の理想であったとする服部の説は、『発心集』が連続する逐電遁世の説話から始まる点から、妥当であると考えられる。

 逐電遁世説話とは、服部によれば「すべてを捨てて求道に専念するあまり人を避け世を遁れて所在を晦まし、人に知られることなく山野に果てた人たち」の説話である。たとえば、第一の一「玄敏僧都、遁世逐電の事」では、興福寺の博学僧、玄敏僧都による逐電遁世の話である。玄敏は桓武天皇平城天皇に召されて位を授けられるような立派な僧侶だったが、世を厭う心が強かったので辞退し、誰にも知られずに遁世してしまった。後年、北陸で船渡しをしている姿を弟子の僧に見つかるも、直ちに行方をくらましてしまい、ついに人に知られることなく果てたという。他の話もこれに類するもので、印象的な説話が多い。

 第三の七「書写山客僧、断食往生の事 此の如きの行を謗るべからざる事」も逐電遁世に分類される、断食僧の話である。そしてこの説話の後に、「此の如き行を謗るべからず事」という長明の評語がある。ここで長明は、断食という苦行を行う僧侶に対して、前世で人に食べ物を施さなかった報いに、自分から断食を行うという目に合うのだ、とか、断食という行為によって他人を驚かして、他人の往生を妨げてやろうというたくらみがあるのだ、などという、苦行に対する批判が当時あったことを紹介する。そして、楽しい豊かな修業はないこと、法華経にも焼身自殺である身燈を勧める記述があることを指摘して、苦行の功徳を信じるべきことを説いた。その上で苦行の功徳に疑いの心を持ち、ましてや他人の信心まで乱す行いは愚かさの極みであるとした。

 第七の十二「心戒上人、跡を留めざること」も、逐電遁世に分類される話である。壮絶な心戒上人の逐電遁世説話の後に、ここでも長明の非常に長い苦行を勧める評語がある。ここでは「或る人」が、

かくの如くの行、我等が分にあらず。一つには、身よわくして、病ひおこりぬべし。一つには、衣食としからば、なかなか心乱れてむ。身を全くし、心をしづめて、のどかに念仏せんにはしかじ

と言ったことに対して、こんなことを言うのは、単に道心が少ないからであると否定する。どんなにいたわっても病気はするし、貧乏な人はどんなに働いても衣食に事欠いているので、気にするだけ無駄である。必ず往生できる苦行という方法を知りながら、仮の身をいたわって一生を無駄にするのは非常にはかないことである、と説く。『雑阿含経』や目連、覚超など様々な例を引きながら、身体がいかに往生の妨げになるかを説いて、身体への執着を捨てる苦行こそが、往生できる道であるとする。長明の理想が語られ、逐電遁世こそ往生の道と信じる長明の信仰心を見てとることができる話末評だ。

 しかし、発心往生に分類される第六の十三「上東門院の女房、深山に住む事 穢土を厭ひ、浄土を欣ぶ事」の話末評では、全く真逆の評価が下されている。この説話は、出家僧が奥山で粗末な庵に住む二人の女房に出会い、十五日交代で都へ出て衣食を調達しながら、往生を願っている話を聞くというものだ。長明は女の身でありながらこのようなつらい道を選んだ背景には、心からの発心があったのだろう、と推察する。そして続く話末評では、愚かな我々には発心する決意も弱く、常に輪廻を繰り返してしまうとする。しかしながら全ての衆生を救うと本願を立てられた釈迦のお陰で、どんな極悪人でも臨終の際に十念を唱えれば救われると説き、

実に、多く百千劫の苦行、仏の御為には何かはせん。只少時の念仏のみぞ、其の本願にはかなへる。(中略)賢愚をも云わず、道俗をもえらばず、「財宝を施せよ」とも説かず、「身命をなげよ」とものたまはず、只ねんごろに弥陀悲願をたのみ、口に名号を唱え、心に往生を願ふ事深くは、十人ながら必ず極楽に生

と、苦行の功徳を軽んじるような評を下している。「いづれの行かは、楽しく豊かなる」と、易行での往生の難しさを指摘し、苦行の功徳のありがたさを説いた第三の七、第七の十二の話末評と正反対ともいえるこの評を、どのように解釈するべきだろうか。

 池田敦子は、『発心集』の説話配列に、長明の往生観に対する疑問を見て取れるとする(7)。『発心集』第一には、先に述べたように、逐電遁世して往生を遂げた人々の説話が多く載る。しかし、池田は第二の七「相真、没の後、袈裟を返す事」以降の説話から、往生に対する「不思議」がテーマになっていくとする。第二の七は、文殊菩薩が下げていたという袈裟の功徳によって往生が叶うという説話だ。この説話に対して、長明は逐電遁世のような、往生に対する心からの発心がなくても往生できる点に不思議を感じているとする。またそれに続く第二の八「真浄房、暫く天狗になる事」は、「やむ事なき、行徳高き」高僧たちが、「取はづし」、往生できなかった説話であり、第二の九「助重、一声念仏に依って往生の事」は、滝口武士助重という在俗の者が、たった一回の念仏によって往生した説話である。そしてこの話末評に

彼の僧正の年来の行徳、助重が一声の念仏の外の事なれど、彼は悪道に留まり、此れは浄土に生る。爰に知んぬ、凡夫の愚かなる心にて、人の徳のほど計りがたき事なり。

という評を下しており、長明がこれらの説話における不条理、往生と往生に対する努力の関係性について、「不思議」、すなわち疑問を持っていたことは明らかであるとする。そして、第二の十「橘太夫、発願往生の事」の説話から、テーマは不思議な往生から、長明の理解に叶う往生へと移っていくとする。この説話は、十悪を犯した主人公が時がかわるごとに十念を唱えるだけで往生を遂げたというもの、またある聖人は寝ているとき以外は常に念仏を唱えるという行だけで往生したという説話で、池田は

やや「不思議」の感はあるが、「常に無常を思て往生を心にかけ」たという「心」のあり方、発心とその一定期間の持続に長明は納得している。「心」の見えなかった鳥羽僧正と助重とは、「人の徳」の程が計れなかったが、第十話の二人の人物の「心」は、行の少なさはあるものの長明の肯定範囲にあったわけである。

とする。さらに、第三の一「江州増叟の事」では、暑きにつけ寒きにつけ、あらゆる事に付けて、まして地獄は、まして極楽はとの思いで「まして」を口にする乞食翁の話で、池田は「正統的な仏法世界では思い付かぬ行というべきものが、往生の因となることを語るものである」としている。

 理解しがたい往生から、行は少ないものの発心を重視する往生へ、さらに現状の仏教では、思いもつかない方法による往生へと、様々な形態の往生が続く。池田は長明が生きた時代を、

天台浄土教から法然浄土宗へ、そして親鸞浄土真宗へという、浄土思想の展開を既に知っている我々にとっては、どの説話が最も進化した浄土思想を示すものか自明であるといっても、長明の生きた時代は、ようやく法然が専修念仏を唱え始めた頃であった。

として、この雑多な内容を含む連環は、長明が「発心のあり方を重視し、その発心を維持し行を積む心の強さに大きな関心を寄せ」たためであるとした。

 全八巻からなる『発心集』には、実に様々な発心、往生の形態が収録されている。数寄往生説話は、そのなかでも、現状の仏教では思いもつかない方法による往生という形で出現する。


第三節『発心集』における数寄

 先に挙げた服部の分類によれば、『発心集』において、数寄に関する説話は七つあり、そのうちの六話は第六に集中して現れる。

第六の七「永秀法師、数奇の事」
第六の八「時光・茂光、数寄天聴に及ぶ事」
第六の九「宝日上人、和歌を詠じて行とする事、併蓮如、讃州崇徳院の御所に参る事」
第六の十「室の泊の遊君、鄭曲を吟じて上人に結縁する事」
第六の十一「乞者の尼、単衣を得て寺に奉加する事」
第六の十二「郁芳院の侍良、武蔵の野に住む事」

の六話に、

第七の五「太子の御墓覚能上人、管絃を好む事」

を合わせた七話である。

 それぞれの話を要約してみると、第六の七は、何よりも笛が好きだった数寄者永秀の話である。貧しかったので遠い親戚で有力者の頼清が援助を申し出ると、永秀はただ笛の名器だけを希望して、他には地位も財宝も望まなかった。永秀の無欲ぶり、数寄ぶりに感動した頼清はすぐに笛を送り、生活の仕送りもした。永秀は熱心に稽古をしたので、非常に上手になったという。そして最後に、「かやうならん心は、何につけてかは深き罪も侍らん」という長明の評語がある。
第六の八は市正時光という笙吹きが、和邇部茂光という篳篥吹きとともに、雅楽唱歌に熱中していたという話である。その熱中ぶりは、急用で二人を召にやってきた勅使の声も耳に入らないほどだった。この旨を勅使から聞いた堀河院は、怒るどころか二人の熱中ぶりを褒め、その二人の唱歌を聞きに行くことができない王位を嘆いた。そして、この説話には最後に

これらを思へば、此の世の事思ひすてむ事も、数寄はことにたよりとなりぬべし。

という長明の話末評がある。

 第六の九は数寄に関する話が五つ入った話群であり、長明による評語も多く語られている。いわば「数寄往生論」の中核をなす説話群であるといえるだろう。

 一つ目は、和歌を詠む行を行う宝日上人の話である。三時の勤行といって、普通では朝昼晩に読経をする勤行であるが、宝日上人は読経の代わりに、朝には「明けぬなり賀茂の河原に千鳥啼くけふも空しく暮れんとすらん」、昼には「今日も又むまの貝こそ吹きにけれ羊の歩みちかづきぬらん」、晩には「山里の夕暮の鐘の声ごとに今日も暮れぬと聞くぞ悲しき」という和歌を詠んでいるという。そして

いとめづらしき行なれど、人の心のすすむ方、様々なれば、勤めも又一筋ならず。潤州の曇融聖は、橋を渡して浄土への業とし、ほ(草冠に輔)州の明康法師は、船に棹さして往生をとげたり。況や、和歌はよくことわりを極むる道なれば、これによせて心をすまし、世の常なきを観せんわざども、便りあるべし。

という評語がある。

 二つ目は、恵心僧都が「世の中を何にたとへん朝ぼらけこぎ行く船の跡の白波」という歌に深く感心し、仏教と和歌とが同一であったことに気づいてそれ以来折々で和歌を詠んだ話がある。

 三つめは、蓮如という僧は、定子皇后の詠んだ御歌「夜もすがら契し事を忘れずは恋ひん涙の色ぞゆかしき」という和歌に非常に感激して、この御歌と『尊勝陀羅尼』とを読んで後世の行とする話がある。そして「いみじかりけるすき者なりかし」という評語を加えている。

 四つ目は、源資通という琵琶の名人が、通常行われている勤行は全くせずに、ただ、毎日数を数えながら琵琶の曲を弾くことで念仏の代わりにしたという話がある。そして

勤めは功と志とによる業なれば、必ずしもこれをあだなりと思ふべきにあらず。中にも、数寄と云ふは、人の交わりを好まず、身のしづめるをも愁へず、花の咲き散るをあはれみ、月の出入を思ふに付けて、常に心を澄まして、世の濁りにしまぬを事とすれば、おのづから生滅のことわりも顕はれ、名利の余執つきぬべし。これ、出離解脱の門出に侍るべし。

という有名な評語を乗せる。

 五つ目は、蓮如崇徳院の慰問に讃岐に下った話がある。しかし、御所は警備が厳しく、蓮如は院に会うことができなかった。そこで「朝倉や木の丸殿に入りながら君に知られで帰るかなしさ」という和歌だけを、なんとか下賤の者に取り次いでもらった。すぐにこの使いが院の返歌
「朝倉や只いたづらに帰すにも釣する蟹の音をのみぞ泣く」を持ってきた。蓮如はこの返歌を大変恐れ多いものに思い、大事に持って帰って行った。

 第六の十は、遊女の道心を描いた話である。少将聖という僧が舟で明月を眺めていると、遊女の舟が僧の舟に近づいた。客引きかと思い船頭がとがめると、遊女が「くらきより闇き道にぞ入りぬべき遥かに照らせ山の端の月」という和歌を鼓に合わせて二三遍うたい、僧との結縁を願って離れていった。僧は大変感心したという話である。

 第六の十一は、老尼の道心の話である。清水寺に籠っていた女房の前に、蓑を被った老尼が通りかかった。着るものが他になく、寒さをしのぐため蓑を被っているという。女房が憐れんで単衣を与えると、老尼は喜んで清水寺にその単衣を寄進し、「かの岸にこぎ離れたるあまなればおしてつくべきうらも持たらず」という和歌を非常な達筆で書き残してどこかへ行ってしまったという話である。

 第六の十二は、西行法師が見た武蔵野の隠者の話である。西行が東国武蔵野に差し掛かると、秋草で作った庵があった。その庵から法華経を読む声がするので西行が訪ねると、主は昔郁芳門院の侍だったが、院の死後ただちに出家し、この地の秋草に惹かれてここに住み、秋草がない季節は花の色を思い出しながら暮らし、今の季節は花に慰められて世の憂さを忘れているという。主はさらに、風流な景色の中で炊事するのも無粋に思い、糧を得るために里に下りることもしない。乞食をして暮らすので、人が通らないときは四五日も何も食べないこともあると西行に語り、長明は「いかに心すみけるぞ、うらやましくなむ」と感想を最後に示している。

 第七の五は、四つの逸話のうち、二つが数寄に関する話である。

 一つ目は、覚能という僧が、音楽によって往生したという話である。普段から多くの楽器を手作りし、それを弾きながら浄土の様を想像していた。臨終のときは日頃の望み通り音楽が聞こえ、見事往生を果たした。仏も覚能の素晴らしさを認めたためか、四十九日に亡骸を隠してしまったという。最後に「管絃も、浄土の業と信ずる人の為には、往生の業となれり」という長明の評がある。

 二つ目は、余執に悩まされた博士の往生の話である。ある博士は臨終が近付いたにも関わらず、自然の風物にのみ関心を寄せて、真剣に往生を願わなかった。導師は思慮があったので、念仏を無理強いせず、博士が好む風流な話につきあった。そして、ころ合いを得て、現世の美景よりも、浄土の風景が更に優れていることを話した。博士は深く納得して念仏し、往生したという。最後に「臨終の善知識は、よくよく心を知るべきなり」という長明の評がある。
以上が数寄往生説話群の要約である。これらを通して分かるのは、数寄往生には必ずしも発心が必要とされていないということである。第六の七では、「かやうならん心は、何につけてかは深き罪も侍らん」という評語が、第六の八では、「これらを思へば、此の世の事思ひすてむ事も、数寄はことにたよりとなりぬべし」という評語があり、両者が長明によって往生の条件を満たす者であるかのように評されている。しかし、これらの説話の主人公たちはただ自分の好むことに情熱を傾け、一生懸命に行っているだけである。ここには往生に対する情熱もなく、二人には数寄を往生のたよりにしようという意識もない。また、この二人が往生を遂げたという記述もない。ただ長明一人が、数寄を往生のたよりになると思っているだけである。第六の九、四つ目にある評語にも、「おのづから生滅のことわりも顕はれ、名利の余執つきぬべし」とある。この評語と同じような記述が『教訓抄』にもあり、そこでは

すきものといふは、慈悲のありて、常にはもののあはれを知りて、あけくれ心を澄まして、花を見、月をながめても、嘆きあかし、思ひくらして、此世をいとひ、仏にならんと思ふべきなり
と記されている。『教訓抄』では「仏にならんと思ふべきなり」と、数寄者に対して発心を促しているが、『発心集』では「おのづから生滅のことわりも顕はれ、名利の余執つきぬべし」と、数寄者は発心をせずとも自然に発心の境地に至れるとしている。

この評語について、三木は

長明の背後には数寄と最終的に折り合いのつくはずのない仏教がある。先の引用文(第六の九、四つ目にある評語)によれば長明はそのことを十分認識していず、彼の自己批判の甘さに気付かざるを得ない(5)

と評している。

 確かに、自分の好きなことだけをやって往生できるというのは、少し虫が良すぎるようにも思う。この点について、長明はどう考えていたのだろうか。

 第七の五、二つ目の説話の主人公である博士は、まさに数寄者と言える人物である。しかし、この話では、数寄だけでは往生のたよりとはならない。美景に寄せる執着を、往生に対する憧れへと成就しなければ、往生できないのである。まさにこの説話は、数寄が執心となって、往生の妨げになる説話と読むことができるだろう。数寄が執心となって往生の妨げになる説話は『発心集』中に他にも出てくる。第一の七「小田原教懐上人、水瓶を打ち破る事 付陽範阿闍梨、梅木を切る事」では数寄ともとれる執着を断ちきった話が二つある。一つ目は、ほれぼれするほど見事な水瓶を手に入れた僧が、水瓶が盗まれないか心配になり勤行に身が入らないので、粉々に打ち砕いた話である。二つ目は、梅の木を愛した僧が自ら梅の木を斧で根元から砕き、上に砂までまいて梅の木の痕跡を消した話である。そして話末には「此等は、皆執をとどめる事を恐れけるなり。(中略)然れども、世々生々に、煩悩のつぶね、やつことなりける習ひの悲しさは知りながら、我も人も、え思ひ捨てぬなるべし」と、執着を捨てきれない自身を嘆く評語がある。
続く第一の八「佐国、華を愛し、蝶となる事 付六波羅寺幸仙、橘木を愛する事」では、逆に執心を断ちきることができずに往生できす、転生を繰り返した話が二つある。一つ目は花を愛した博士の話である。花を愛するあまり、博士は折々に打ち眺めたり、詩に作ったりしていた。博士の息子は花への執心が往生の妨げになるのではないかと心配されていたが、博士の死後、ある人の夢に、博士が蝶に生まれ変わっているということを聞いて、息子は罪深く思い、花を植えて蝶をもてなしたという話である。二つ目は橘の木を愛したあまり、死後蛇に生まれ変わって橘の木の下に住むことになった僧の話があり、話末に「念々の妄執、一々に悪身を受くる事は、はたして疑ひなし。実に恐れても恐るべき事なり」という評語がある。

 「我も人も、え思ひ捨てぬなるべし」と語る長明の心に浮かんだ妄執のうちには、管絃や和歌に対する情熱も含まれていたのではないだろうか。『発心集』において、苦行と易行という、相反する二つの概念があることは既に述べた。そしてここにも、数寄と執心という、往生に対して相反する二つの概念がある。『発心集』の矛盾を、どのように理解すればよいのだろうか。

 私はここで、第三の七の話末評

あふぎて信ずべし。疑ひて何の益かはある。しかるを、我が心の及ばぬままに、みづから信ぜぬのみならず、他の信心をさへ乱するは、愚癡の極まれるなり。

に注目し、この問題について考えてみたい。第三の七の話末評は、易行への否定というより、苦行を否定する行為の否定であるといえるだろう。それは苦行の肯定といえるが、広く勤行全ての肯定であると捉えることができるのではないだろうか。第六の十三話末評においても、長明は念仏の功徳を讃えたうえで

ただし、諸行は、宿執によりて進む。みづからつとめて、執して、他の行そしるべからず。一華一香、一文一句、皆西方に回向せば、同じく往生の業となるべし。水は溝をたづねて流る。さらに、草の露、木の汁を嫌ふ事なし。善は心にしたがひておもむく。いづれの行か、広大の願海に入らざらんや。

と記している。ここでも、第七の五、一つ目の話末評にも、「管絃も、浄土の業と信ずる人の為には、往生の業となれり」と記している。

 長明は第一の七、八、第七の五、二つ目の説話などから分かるように、数寄往生に批判が多くあるのを理解していたと思われる。しかしながら、当時おこなわれていた多くの勤行、苦行、易行にも批判があった。また、多くの行を積んだ者が往生できない反面で、たった一回の念仏で往生できる者がいるなど、往生には理解しがたい点も多くあった。『発心集』はそれら往生に対する様々な方法を収録し、「他の行そしるべからず」という編集方針によって貫かれていた。
長明は、在来の権威ある勤行にも欠点や矛盾があることを詳らかにし、またその欠点や矛盾を認めることで、数寄往生の欠点や矛盾をもあわせて認めてもらおうとしたのではないだろうか。例えば、原始仏教において釈迦は苦行を否定している。この点からいえば苦行による往生は仏教とは相いれないものと言うことができるだろう。「実に、多く百千劫の苦行、仏の御為には何かはせん」である。しかしながら、苦行には肉体の誘惑に打ち勝つという優れた点があるために、多くの人によって往生の行として認められているのだ、と『発心集』は答えている。この論理でいえば、仏教とは相いれない数寄も、現世を忘れ、理を深く知ることができるという利点があるために、往生の行とみなすことができるのである。

 長明は俗世の執着を全て捨て、過酷な行を勤める逐電遁世の出家たちを理想とした。しかし、長明は遁世出家してもなお、方丈の庵に、和歌・管絃の書物や、琴・琵琶を持ちむなど、数寄に対する執心を捨て去ることができなかった。数寄者でありながら往生を遂げるには、往生の行となるまで数寄の質を高めていくしかなかった。そのために長明は『発心集』において往生に適いうる数寄者たちの逸話を集め、数寄往生の論拠とした。それだけにはとどまらず、数寄が執心となり往生出来なかった話も載せる。長明は数寄往生の論理的弱さを知った上で、他の勤行にも欠点があることを指摘し、行の論理的完璧さが重要なのではなく、いかに自らが信じる行を熱心に行うか、が重要であることを説いたのだった。