卒論「『無名抄』の執筆意図 」序章(1/4)

このたび成績発表があり、無事卒業が決まった。卒業にあたって執筆したのが下記の論文である。


『無名抄』の執筆意図


序章 長明と和歌

第一節 問題提起

 『無名抄』は、建暦二年(一二五八)ころ、鴨長明によって、日野の山荘において執筆された。具体的な執筆時期は不明であるが、『発心集』や『方丈記』と同時期の著作と考えられている。題詠の心得から説き始める『無名抄』は、作歌論にとどまらず、歌語や歌詞の用法、歌枕や名所旧跡についての説話、歌人評、歌体論と、実に雑多な内容を有し、その性格から「歌道随筆」とも評されている。松村雄二はその執筆意図を、

『無名抄』における長明の本来の意図は、やはり、歌道上の興味ある事象を、自分の経験的な判断に従って書き残してゆくといった点にあったとみるのが無難であろう(1)

と推測している。『方丈記』にも日野の草庵に和歌・管絃・往生要集などの書き抜きをした書物を持ち込んでいたことが記されている。和歌についての研究を出家後も行っていたことがしのばれ、この推測は妥当であると思う。
 しかしながら、『無名抄』執筆の意図は、『無名抄』にも、『発心集』、『方丈記』にも書かれてはいない。長明は歌道の家に生まれたわけではなく、また歌道の弟子を持っていたわけではなかった。長明が『無名抄』執筆にあたって影響を受けたと考えられる『俊頼髄脳』は、藤原忠実の依頼で、その娘勲子のために執筆されたことが伝えられており、その執筆意図は明確である。また『袋草紙』を著した藤原清輔は、御子左家とともに二大流派をなしていた六条家の当主であり、清輔の歌学を門弟に伝授する目的があったものと思われる。また『袋草紙』はその評判から二条天皇から紙料を賜るなど、清輔や六条家の名声を上げることにも役立った。しかし、長明の『無名抄』は明確な読者を想定することが難しく、また和歌所寄人の職を投げ打って出家した長明に、『無名抄』の執筆による名声獲得の意図があったとは考えにくい。そんな長明がなぜ、『無名抄』を書き上げたのだろうか。
 本論では、他の歌論書、また『発心集』の記述などから、『無名抄』執筆の意図を考察する。


第二節 歌人としての長明

 考察に入る前に、歌人として長明が歩んだ経歴を追っていきたい。
 現在伝わっている中で最も古い長明の歌作は、父長継の死を詠んだ歌である。承安二年(一一七二)の冬から翌年の春までの間に、長継は没したと考えられている。長継は異例の出世を遂げた人物で、二十三歳の時すでに下鴨社の正禰宜であり、従四位下を賜っていた。長継の死亡当時、十八歳前後だった長明は、

   父みまかりてあくる年、花を見て詠める
 春しあれば今年も花は咲きにけり散るを惜しみし人はいづらは

など、数種の歌を詠んでおり、日本古典全書『方丈記』には、『赤染衛門集』の和歌、

  たれ見よとなほにほふらん桜花散るを惜しみし人もなき世に

が参考歌として挙げられている。三木紀人は、

この種の歌を念頭においての詠だとすれば、まだ十代終わり頃だったとおぼしい長明に、後年の歌人ぶりの芽ともいうべき、それなみのたしなみがあったことになろうし、歌人長明の形成に父があずかっていたらしいこともうかがえる(2)

と推察している。歌人長明の形成に、父の死の影響があったことは、後年の出家のことを思うと印象深い。何不自由なく成長した長明にとって、偉大な父の死の衝撃は計り知れなかったようで、自殺をほのめかす歌を数首残している。
 最初期の頃、長明が公式な歌合に出席したときのエピソードが『無名抄』に収録されている。安元元年(一一七五)高松女院の北面の菊合、長明二十一歳のことだった。ここで長明は提出する予定だった歌を、歌人の勝命入道に見せたところ、字句の不吉さを指摘された。そこで別の歌を提出して事なきを得たという。長明が歌を見てもらった勝命入道は藤原親重といい、父長継の友人であった。二人は和歌同好の士であり、小歌壇が形成されていたらしい。
 養和元年(一一八一)には『鴨長明集』が成立する。長明二十七歳頃のことで、それまでの自作和歌百五首が収められている。二十七歳というのは家集を編纂するには若すぎる感があるが、このころ、上賀茂社の賀茂重保が、三十六人から百首の歌を集める企てをしており、そのための自選集であったと思われる。
 長明の和歌の師は、歌林苑を主宰していた俊恵法師である。しかし、いつ頃から長明が俊恵に師事していたかを記す史料もなく、また俊恵の没年も不明のため下限も決められず、はなはだ漠然としている。『日本古典文学大辞典』では、『鴨長明集』について「稚拙なものを含むが、全体に歌林苑風の優美平明な歌が多い」(3)とし、俊恵の影響を認めている。しかし、三木紀人は「『鴨長明集』の内にも外にも、師匠俊恵の影らしきものが見られないことからすると、長明が(俊恵の)弟子となったのはその成立以降ではないかと疑われる」(4)とする。『鴨長明集』には、和歌の知識の上に詠まれたものが多く、俊恵の影響の有無は不明であるが、和歌への真摯な取り組みが見て取れる。
 歌林苑には、中下流貴族や武士、遁世者といった上流サロンに列する機会が比較的乏しい者が多く、年配者が圧倒的に多かった。先に挙げた賀茂重保も歌林苑のメンバーであり、長明は彼らの教授を受けながら、才能を伸ばしていった。文治三年(一一八七)には、勅撰集である『千載集』に一首入集し、非常に喜んでいる。長明三十三歳のころ。その喜びかたの素直さを、琵琶の師中原有安に褒められた逸話が、『無名抄』に載る。
 しかし、その後師俊恵や有安など長明を庇護してくれた者は死んでゆき、長明の活躍をたどることが難しくなる。自然解消になったと思われる歌林苑ののち、長明は他のグループに属すことなく、ひとり和歌の研鑽を積んでいたと考えられている。
 そんな長明の転機となったのが、正治二年(一二〇〇)以降の和歌の隆盛である。長明は後鳥羽院の恩顧のもとに歌人として頭角を現すこととなった。長明は院の下命による『正治再度百首』の歌人に列したことを皮切りに、建仁元年(一二〇一)には後鳥羽院が再興した和歌所の寄人に任じられる。数々の歌合せに出席し、優秀な歌人たちと交わる中で、自らの才能を磨いていったようである。和歌所の数名に『新古今集』撰進の命も下り、長明は献身的に奉職したという。『無名抄』には「御所に朝夕候ひし比」と、このころの献身的な奉職ぶりを回想している。
このころの長明の活躍を示すのが、建仁二年(一二〇二)三体和歌会での出来事である。「春・夏」「秋・冬」「恋・旅」という詠題から、後鳥羽院歌人の力量を図るという意図から開かれたこの歌会は、多くの者が病気などを理由に欠席した。長明を含む六名のみが出席し、長明はおおいに面目を施したという。長明四十八歳の出来事だった。あくる建仁三年(一二〇三)には、和歌所の面々による二度の花見が行われる。長明は参加の人々と和歌連歌し、帰りの車でも余韻絶えず家長らと笛を吹いたことが伝わる。『新古今集』撰集事業も大詰めを迎えていた。
 しかし、歌壇における長明の活躍はこの年を以て終わる。あくる元久元年(一二〇四)に長明が遁世してしまうためである。この遁世については諸説あるが、河合社禰宜職の継承争いに敗れたためとされている。後鳥羽院は長明の献身的な出仕のために、欠員が出た河合社の禰宜に長明を就任させようとした。しかし、下鴨社惣官の佑兼から猛反対にあい断念、後鳥羽院はあらたに「うら社」という神社を官社とし、そこに禰宜と祝の職を設けて、長明に禰宜の位を与えようとした。破格の待遇であり、長明がいかに精力的に勤めていたかを物語るエピソードだが、長明はこの案を拒否。父と同じ下鴨社惣官にあこがれていた長明にとって、そのステップである河合社禰宜になれなかったことで、将来の官途に絶望したためと言われている。その後大原で出家。出家後に完成した『新古今集』には十首入集。その後日野の方丈に移り住み、『無名抄』を完成させた。


第三節『無名抄』執筆意図に関する主な研究

 『無名抄』執筆意図について考察した論文には、左のものが挙げられる。論文では(ア)、(イ)の論と、(イ)(ウ)の論、二つのグループに大別される。
(ア)松村雄二「『無名抄』の〈私〉性」(『紀要』第十九号、共立女子短期大学(文科)一九七五年十二月)
(イ)木下華子「『無名抄』の再検討」(『国語と国文学』第八十巻八号、東京大学国語国文学会、二〇〇三年八月)
(ウ)横山一美「鴨長明の数寄―『発心集』と『無名抄』の関連において―」(『二松学舎大学人文論叢』十五号、一九七八年三月)
(エ)村越英裕「『無名抄』の成立に関する一考察」(『二松学舎大学人文論叢』十七号、一九八〇年)
(ア)、(イ)の論は、『無名抄』を長明の自己実現の文学であったとするものだ。
(ア)の松村雄二の論文では、『無名抄』において、長明は和歌に関する諸事象を理念的に裁断し、そこに自己の歌人的立場を明確にうち出すということをせず、具体的経験的な事実の伝達者として自己の立場を忠実に固守している点を指摘する。その理由については、和歌という自己の才能によって、当時の最高の貴族文化圏へ加入することができたが、そのことを理由に出世への道を妨害された過去にあるとする。「〈妄念〉に満ち、世俗の虚栄に踊らされた挙句に見事に失敗した者の、二度とそういう姿勢で物事を誤ることをしまいといった、底深い断念に由来している」とする。しかしながら、『無名抄』には長明自身が主人公になる説話が頻出し、その中でも長明が結果として周囲から面目を施した例を語る話が圧倒的に多い。松村は、長明は自己を殺しきれなかったとし、「『無名抄』は、自分に恨みを与えた世間に対して、実は自分はその世界でこれだけの事をやったのだという自賛の書であった」と結論付ける。
(イ)の木下華子の論文では、和歌を理由にする出世妨害の他に、長明が歌壇での評価が高くない点や、長明が当時歌壇を席巻していた「新風」についても理解できていなかったであろう点を挙げ、長明と和歌との関係を、「長明が和歌に打ち込んだ時間の長さ、思いの深さに相反するように、現実の出来事は和歌と自らの関わりを負の側面へと追い込んでゆく」ものであるとした。そんな長明にあって、『袋草紙』の構成を巧みに用いながら、自賛譚を巧みに構成した『無名抄』は「和歌世界における自らの営為を意味あるものとして残すという長明の自己現実の文学だった」と結論付ける。
 一方、(ウ)、(エ)のグループは、『無名抄』と「数寄往生」との関連性を指摘するものである。
(ウ)の横山一美の論文では、長明の説く「数寄」という概念が、所詮「執心」なのではないか、という問題が存在しているとする。その問題に対して長明が用意した答えが、『発心集』での数寄往生説話群であるとした。即ち、一心に数寄に心を凝らすということが、世間から逃れ、名利から遁走する一つの方法としてとらえられ、それは仏道修行と同じことになるのではないかという考えである。
(エ)の村越英裕の論文では、『無名抄』の幽玄論である、「詮はただことばにあらはれぬ余情、姿に見えぬ景色なるべし。心にもことわりふかく、言葉にも艶きはまりぬれば、ただ徳はおのづからそなはるにこそ」に着目する。そして、『無名抄』のなかに、多くの和歌に偏執した人々の話を収録する点を指摘し、長明の説く「不可視的に存在する深遠な美に感動する和歌的美意識」を見に付けるための方法が、「和歌を通しての生き方」の中に描かれているとする。さらに、『発心集』の数寄往生説話と関連付け、『発心集』を数寄往生の理論書であると定義し、『無名抄』は数寄往生の理論に基づいて記された和歌の教本であると結論付ける。
 いずれの論も、『発心集』『方丈記』、また長明の生い立ちから論を進めていくにもかかわらず、二つの異なる結論に至っている。はたして『無名抄』は自己肯定の「自讃の書」なのだろうか、それとも、往生と数寄との葛藤から生まれた「数寄往生論」なのだろうか。