卒論「『無名抄』の執筆意図」終章(4/4)

終章『無名抄』の執筆意図


 『無名抄』における数寄像に、『発心集』で展開された数寄往生の論理が働いていることは、先に述べたように、執筆時期から見て間違いないだろう。『無名抄』における数寄は、同世代の人々が定義した「孤猿風の暗さに隈取られているか「嗚呼」の趣があるか、いずれにせよ、どことなく異端な感じがある者を呼ぶ名」ではない。往生と、和歌への執心との葛藤に苦しんだ長明は、在来の数寄という概念をさらに純化させ、往生にかなう行にまで進化させた。『無名抄』において、数寄とは歌人として目指すべき至上の境地だった。ただひたすら歌枕にあこがれ、秀歌を詠むことに情熱を傾ける、往生にかなう者を呼ぶ名だったのである。『無名抄』において紹介される歌人たちの姿は、数寄往生にかなう優れた歌人である。長明は『発心集』で数寄往生の論理を示し、『無名抄』において数寄往生の実践を示したのではないだろうか。

 『無名抄』の特色として挙げた、過去の出来事を注釈するにとどまり、自身の歌人的立場を明確に打ち出さないという執筆方針は、『発心集』での、他の勤行を批判せず、すべての勤行を往生にかなう道として肯定する編集方針と、似通っていることに気付く。長明にとって、旧態の和歌を詠む者たちも、幽玄を掲げる新風和歌を詠む者たちも、和歌にかける情熱が優れているならば、ともに数寄と評価するに値した。ここにも、長明の数寄に対する純化が見て取れる。

 そして、『無名抄』十七話「井手款冬蛙事」の中で、長明は数寄といえるほどの和歌への情熱を持っていない自分を反省する。しかし、十六話「ますほの薄事」で分かるように、長明は自分を数寄者の系列に属していることを自称していた。『無名抄』において自己顕示譚、中でも自賛譚が頻出することは、いかに自分が数寄者であるか、和歌へ対する情熱を有しているかの証明とみることができると思う。過去の出来事、事実のみを記し、長明の主観を排するという執筆方針が、この証明にたいして有効に働いている。

 松村、木下の論では、なぜ自讃嘆を多く取り込んだのかという点について、長明の挫折多い人生からその理由を読み取っている。しかし、『発心集』において、長明が和歌に対してどのような思想を持っていたかという考察に欠けているように思う。「和歌はよくことわりを極むる道なれば、これによせて心をすまし、世の常なきを観ぜんわざども、便りありぬべし」という『発心集』での思想を、もっと重視してよいのではないか。すなわち、『無名抄』の執筆理由は、出家僧として、長明が和歌とどのように向き合うべきかを整理するためであった。自身のために編纂したために、『無名抄』は対象となる読者を持たない。また、自己顕示譚・自賛譚が頻出する理由も、和歌と自分との関係性を明らかにするためであったと考えたい。


(1)松村雄二「『無名抄』の〈私〉性」(『紀要』第十九号、共立女子短期大学(文科)一九七五年十二月)
(2)三木紀人『鴨長明』(講談社学術文庫、一九九五年)
(3)松村雄二「鴨長明集」(岩波書店『日本古典文学大辞典』第二巻、一九八四年)
(4)(2)に同じ。
(5)三木紀人「数寄者たちとその周辺」(学燈社『国文学 解釈と教材の研究』一九七〇年八月)
(6)木下華子「鴨長明の『数寄』―概念と実態と―」(至文堂『国語と国文学』二〇〇五年二月)
(7)池田敬子「『発心集』の説話配列と長明の浄土思想」(『日本文芸研究』五十六号、関西大学、二〇〇五年三月十日)
(8)服部七郎「発心集と鴨長明」(『宮崎女子短期大学紀要』十三号、宮崎女子短期大学、一九八七年三月)


付記

・『無名抄』『毎月抄』のテキスト、章段名は、久松潜一・西尾實校注『歌論集 能楽論集』(岩波書店日本古典文学大系』)収録の『無名抄』『毎月抄』によった。『無名抄』の章段数は著者が便宜的にふった。
・『発心集』のテキスト、章段名、章段数は、三木紀人校注『方丈記 発心集』(新潮社『新潮日本古典集成』)によった。
・『袋草紙』のテキスト、章段名、章段数は、藤岡忠美校注『袋草紙』(岩波書店新日本古典文学大系』)によった。

卒論「『無名抄』の執筆意図」第三章(3/4)

第三章『発心集』と数寄往生


第一節『発心集』について

 『無名抄』の成立は、十八話「関清水事」にある「建暦の初めの年十月廿日の頃三井寺へ行く」という記述を信用すれば、建暦元年(一二一一)以降ということになる。『発心集』の成立は通常『方丈記』が成立したとおもわれる建暦二年(一二一二)の二三年後が想定されている。両書は、多くの説話を集めるという性質上、長い年月をかけて編纂されたと考えられる。『発心集』に盛られた心情や精神は、そのまま『無名抄』執筆時の心情や精神と重ね合わせて考えることができるだろう。ここでは『発心集』の思想から、長明の思想を読み取り、『無名抄』執筆の意図につながる手がかりを考察したい。

 『発心集』は『日本往生極楽記』などの「往生伝」を参考に書かれているとされる。長明の時代には、すでに多くの「往生伝」が成立しており、池田敦子(7)によれば、先に挙げた『日本往生極楽記』のほかにも、『法華験記』『続本朝往生伝』『拾遺往生伝』『後拾遺往生伝』は長明が確実に読んでいたとする。そして池田は、その内容について

「往生伝」の存在が『発心集』編集の動機付けとなったことは間違いなかろう。『発心集』も、往生に失敗した説話を入れながらも、まさに「往生伝」であることは一読すれば了解できることである。しかし書名の『発心集』が示す通り、彼の関心は往生できたか否かより、如何にして往生し得たか、あるいは如何にして往生につながる「発心」をし、それを持続し得たかというところにあると思われる。

と述べる。『発心集』序にも

定めて謬りは多く、実はすくなからん。若し又、ふたたび問ふに便りなきをば、所の名、人の名を記さず。云はば、雲を取り、風をむすべるが如し。誰人か是を用いん。物しかあれど、人信ぜよとにもあらねば、必ずしも、たしかなる跡を尋ねず。道のほとりのあだことの中に、我が一念の発心を楽しむばかりにや、と云えり。

と記されている。一概にこれが長明の本心ということはできないが、『無名抄』とは異なり、自身の道心を鼓舞激励するという執筆意図があったことは明らかである。では長明の道心、往生観とはどのようなものだったのだろうか。


第二節『発心集』の往生観

 服部七郎は、『発心集』中一〇二の説話を五つに分類した(8)。即ち、

A.逐電遁世
B.発心往生
C.執心
D.数寄
E.逸話奇聞

の五つである。序文における長明の「賢きを見ては、及び難くとも、こひねがふ縁とし、愚かなるを見ては、自ら改むる媒とせむとなり」という言葉から、「道心の鼓舞激励」という『発心集』の観点に立つと、Aが最も重要な内容であり、Eが最も軽い内容であるとする。逐電遁世の説話が長明の理想であったとする服部の説は、『発心集』が連続する逐電遁世の説話から始まる点から、妥当であると考えられる。

 逐電遁世説話とは、服部によれば「すべてを捨てて求道に専念するあまり人を避け世を遁れて所在を晦まし、人に知られることなく山野に果てた人たち」の説話である。たとえば、第一の一「玄敏僧都、遁世逐電の事」では、興福寺の博学僧、玄敏僧都による逐電遁世の話である。玄敏は桓武天皇平城天皇に召されて位を授けられるような立派な僧侶だったが、世を厭う心が強かったので辞退し、誰にも知られずに遁世してしまった。後年、北陸で船渡しをしている姿を弟子の僧に見つかるも、直ちに行方をくらましてしまい、ついに人に知られることなく果てたという。他の話もこれに類するもので、印象的な説話が多い。

 第三の七「書写山客僧、断食往生の事 此の如きの行を謗るべからざる事」も逐電遁世に分類される、断食僧の話である。そしてこの説話の後に、「此の如き行を謗るべからず事」という長明の評語がある。ここで長明は、断食という苦行を行う僧侶に対して、前世で人に食べ物を施さなかった報いに、自分から断食を行うという目に合うのだ、とか、断食という行為によって他人を驚かして、他人の往生を妨げてやろうというたくらみがあるのだ、などという、苦行に対する批判が当時あったことを紹介する。そして、楽しい豊かな修業はないこと、法華経にも焼身自殺である身燈を勧める記述があることを指摘して、苦行の功徳を信じるべきことを説いた。その上で苦行の功徳に疑いの心を持ち、ましてや他人の信心まで乱す行いは愚かさの極みであるとした。

 第七の十二「心戒上人、跡を留めざること」も、逐電遁世に分類される話である。壮絶な心戒上人の逐電遁世説話の後に、ここでも長明の非常に長い苦行を勧める評語がある。ここでは「或る人」が、

かくの如くの行、我等が分にあらず。一つには、身よわくして、病ひおこりぬべし。一つには、衣食としからば、なかなか心乱れてむ。身を全くし、心をしづめて、のどかに念仏せんにはしかじ

と言ったことに対して、こんなことを言うのは、単に道心が少ないからであると否定する。どんなにいたわっても病気はするし、貧乏な人はどんなに働いても衣食に事欠いているので、気にするだけ無駄である。必ず往生できる苦行という方法を知りながら、仮の身をいたわって一生を無駄にするのは非常にはかないことである、と説く。『雑阿含経』や目連、覚超など様々な例を引きながら、身体がいかに往生の妨げになるかを説いて、身体への執着を捨てる苦行こそが、往生できる道であるとする。長明の理想が語られ、逐電遁世こそ往生の道と信じる長明の信仰心を見てとることができる話末評だ。

 しかし、発心往生に分類される第六の十三「上東門院の女房、深山に住む事 穢土を厭ひ、浄土を欣ぶ事」の話末評では、全く真逆の評価が下されている。この説話は、出家僧が奥山で粗末な庵に住む二人の女房に出会い、十五日交代で都へ出て衣食を調達しながら、往生を願っている話を聞くというものだ。長明は女の身でありながらこのようなつらい道を選んだ背景には、心からの発心があったのだろう、と推察する。そして続く話末評では、愚かな我々には発心する決意も弱く、常に輪廻を繰り返してしまうとする。しかしながら全ての衆生を救うと本願を立てられた釈迦のお陰で、どんな極悪人でも臨終の際に十念を唱えれば救われると説き、

実に、多く百千劫の苦行、仏の御為には何かはせん。只少時の念仏のみぞ、其の本願にはかなへる。(中略)賢愚をも云わず、道俗をもえらばず、「財宝を施せよ」とも説かず、「身命をなげよ」とものたまはず、只ねんごろに弥陀悲願をたのみ、口に名号を唱え、心に往生を願ふ事深くは、十人ながら必ず極楽に生

と、苦行の功徳を軽んじるような評を下している。「いづれの行かは、楽しく豊かなる」と、易行での往生の難しさを指摘し、苦行の功徳のありがたさを説いた第三の七、第七の十二の話末評と正反対ともいえるこの評を、どのように解釈するべきだろうか。

 池田敦子は、『発心集』の説話配列に、長明の往生観に対する疑問を見て取れるとする(7)。『発心集』第一には、先に述べたように、逐電遁世して往生を遂げた人々の説話が多く載る。しかし、池田は第二の七「相真、没の後、袈裟を返す事」以降の説話から、往生に対する「不思議」がテーマになっていくとする。第二の七は、文殊菩薩が下げていたという袈裟の功徳によって往生が叶うという説話だ。この説話に対して、長明は逐電遁世のような、往生に対する心からの発心がなくても往生できる点に不思議を感じているとする。またそれに続く第二の八「真浄房、暫く天狗になる事」は、「やむ事なき、行徳高き」高僧たちが、「取はづし」、往生できなかった説話であり、第二の九「助重、一声念仏に依って往生の事」は、滝口武士助重という在俗の者が、たった一回の念仏によって往生した説話である。そしてこの話末評に

彼の僧正の年来の行徳、助重が一声の念仏の外の事なれど、彼は悪道に留まり、此れは浄土に生る。爰に知んぬ、凡夫の愚かなる心にて、人の徳のほど計りがたき事なり。

という評を下しており、長明がこれらの説話における不条理、往生と往生に対する努力の関係性について、「不思議」、すなわち疑問を持っていたことは明らかであるとする。そして、第二の十「橘太夫、発願往生の事」の説話から、テーマは不思議な往生から、長明の理解に叶う往生へと移っていくとする。この説話は、十悪を犯した主人公が時がかわるごとに十念を唱えるだけで往生を遂げたというもの、またある聖人は寝ているとき以外は常に念仏を唱えるという行だけで往生したという説話で、池田は

やや「不思議」の感はあるが、「常に無常を思て往生を心にかけ」たという「心」のあり方、発心とその一定期間の持続に長明は納得している。「心」の見えなかった鳥羽僧正と助重とは、「人の徳」の程が計れなかったが、第十話の二人の人物の「心」は、行の少なさはあるものの長明の肯定範囲にあったわけである。

とする。さらに、第三の一「江州増叟の事」では、暑きにつけ寒きにつけ、あらゆる事に付けて、まして地獄は、まして極楽はとの思いで「まして」を口にする乞食翁の話で、池田は「正統的な仏法世界では思い付かぬ行というべきものが、往生の因となることを語るものである」としている。

 理解しがたい往生から、行は少ないものの発心を重視する往生へ、さらに現状の仏教では、思いもつかない方法による往生へと、様々な形態の往生が続く。池田は長明が生きた時代を、

天台浄土教から法然浄土宗へ、そして親鸞浄土真宗へという、浄土思想の展開を既に知っている我々にとっては、どの説話が最も進化した浄土思想を示すものか自明であるといっても、長明の生きた時代は、ようやく法然が専修念仏を唱え始めた頃であった。

として、この雑多な内容を含む連環は、長明が「発心のあり方を重視し、その発心を維持し行を積む心の強さに大きな関心を寄せ」たためであるとした。

 全八巻からなる『発心集』には、実に様々な発心、往生の形態が収録されている。数寄往生説話は、そのなかでも、現状の仏教では思いもつかない方法による往生という形で出現する。


第三節『発心集』における数寄

 先に挙げた服部の分類によれば、『発心集』において、数寄に関する説話は七つあり、そのうちの六話は第六に集中して現れる。

第六の七「永秀法師、数奇の事」
第六の八「時光・茂光、数寄天聴に及ぶ事」
第六の九「宝日上人、和歌を詠じて行とする事、併蓮如、讃州崇徳院の御所に参る事」
第六の十「室の泊の遊君、鄭曲を吟じて上人に結縁する事」
第六の十一「乞者の尼、単衣を得て寺に奉加する事」
第六の十二「郁芳院の侍良、武蔵の野に住む事」

の六話に、

第七の五「太子の御墓覚能上人、管絃を好む事」

を合わせた七話である。

 それぞれの話を要約してみると、第六の七は、何よりも笛が好きだった数寄者永秀の話である。貧しかったので遠い親戚で有力者の頼清が援助を申し出ると、永秀はただ笛の名器だけを希望して、他には地位も財宝も望まなかった。永秀の無欲ぶり、数寄ぶりに感動した頼清はすぐに笛を送り、生活の仕送りもした。永秀は熱心に稽古をしたので、非常に上手になったという。そして最後に、「かやうならん心は、何につけてかは深き罪も侍らん」という長明の評語がある。
第六の八は市正時光という笙吹きが、和邇部茂光という篳篥吹きとともに、雅楽唱歌に熱中していたという話である。その熱中ぶりは、急用で二人を召にやってきた勅使の声も耳に入らないほどだった。この旨を勅使から聞いた堀河院は、怒るどころか二人の熱中ぶりを褒め、その二人の唱歌を聞きに行くことができない王位を嘆いた。そして、この説話には最後に

これらを思へば、此の世の事思ひすてむ事も、数寄はことにたよりとなりぬべし。

という長明の話末評がある。

 第六の九は数寄に関する話が五つ入った話群であり、長明による評語も多く語られている。いわば「数寄往生論」の中核をなす説話群であるといえるだろう。

 一つ目は、和歌を詠む行を行う宝日上人の話である。三時の勤行といって、普通では朝昼晩に読経をする勤行であるが、宝日上人は読経の代わりに、朝には「明けぬなり賀茂の河原に千鳥啼くけふも空しく暮れんとすらん」、昼には「今日も又むまの貝こそ吹きにけれ羊の歩みちかづきぬらん」、晩には「山里の夕暮の鐘の声ごとに今日も暮れぬと聞くぞ悲しき」という和歌を詠んでいるという。そして

いとめづらしき行なれど、人の心のすすむ方、様々なれば、勤めも又一筋ならず。潤州の曇融聖は、橋を渡して浄土への業とし、ほ(草冠に輔)州の明康法師は、船に棹さして往生をとげたり。況や、和歌はよくことわりを極むる道なれば、これによせて心をすまし、世の常なきを観せんわざども、便りあるべし。

という評語がある。

 二つ目は、恵心僧都が「世の中を何にたとへん朝ぼらけこぎ行く船の跡の白波」という歌に深く感心し、仏教と和歌とが同一であったことに気づいてそれ以来折々で和歌を詠んだ話がある。

 三つめは、蓮如という僧は、定子皇后の詠んだ御歌「夜もすがら契し事を忘れずは恋ひん涙の色ぞゆかしき」という和歌に非常に感激して、この御歌と『尊勝陀羅尼』とを読んで後世の行とする話がある。そして「いみじかりけるすき者なりかし」という評語を加えている。

 四つ目は、源資通という琵琶の名人が、通常行われている勤行は全くせずに、ただ、毎日数を数えながら琵琶の曲を弾くことで念仏の代わりにしたという話がある。そして

勤めは功と志とによる業なれば、必ずしもこれをあだなりと思ふべきにあらず。中にも、数寄と云ふは、人の交わりを好まず、身のしづめるをも愁へず、花の咲き散るをあはれみ、月の出入を思ふに付けて、常に心を澄まして、世の濁りにしまぬを事とすれば、おのづから生滅のことわりも顕はれ、名利の余執つきぬべし。これ、出離解脱の門出に侍るべし。

という有名な評語を乗せる。

 五つ目は、蓮如崇徳院の慰問に讃岐に下った話がある。しかし、御所は警備が厳しく、蓮如は院に会うことができなかった。そこで「朝倉や木の丸殿に入りながら君に知られで帰るかなしさ」という和歌だけを、なんとか下賤の者に取り次いでもらった。すぐにこの使いが院の返歌
「朝倉や只いたづらに帰すにも釣する蟹の音をのみぞ泣く」を持ってきた。蓮如はこの返歌を大変恐れ多いものに思い、大事に持って帰って行った。

 第六の十は、遊女の道心を描いた話である。少将聖という僧が舟で明月を眺めていると、遊女の舟が僧の舟に近づいた。客引きかと思い船頭がとがめると、遊女が「くらきより闇き道にぞ入りぬべき遥かに照らせ山の端の月」という和歌を鼓に合わせて二三遍うたい、僧との結縁を願って離れていった。僧は大変感心したという話である。

 第六の十一は、老尼の道心の話である。清水寺に籠っていた女房の前に、蓑を被った老尼が通りかかった。着るものが他になく、寒さをしのぐため蓑を被っているという。女房が憐れんで単衣を与えると、老尼は喜んで清水寺にその単衣を寄進し、「かの岸にこぎ離れたるあまなればおしてつくべきうらも持たらず」という和歌を非常な達筆で書き残してどこかへ行ってしまったという話である。

 第六の十二は、西行法師が見た武蔵野の隠者の話である。西行が東国武蔵野に差し掛かると、秋草で作った庵があった。その庵から法華経を読む声がするので西行が訪ねると、主は昔郁芳門院の侍だったが、院の死後ただちに出家し、この地の秋草に惹かれてここに住み、秋草がない季節は花の色を思い出しながら暮らし、今の季節は花に慰められて世の憂さを忘れているという。主はさらに、風流な景色の中で炊事するのも無粋に思い、糧を得るために里に下りることもしない。乞食をして暮らすので、人が通らないときは四五日も何も食べないこともあると西行に語り、長明は「いかに心すみけるぞ、うらやましくなむ」と感想を最後に示している。

 第七の五は、四つの逸話のうち、二つが数寄に関する話である。

 一つ目は、覚能という僧が、音楽によって往生したという話である。普段から多くの楽器を手作りし、それを弾きながら浄土の様を想像していた。臨終のときは日頃の望み通り音楽が聞こえ、見事往生を果たした。仏も覚能の素晴らしさを認めたためか、四十九日に亡骸を隠してしまったという。最後に「管絃も、浄土の業と信ずる人の為には、往生の業となれり」という長明の評がある。

 二つ目は、余執に悩まされた博士の往生の話である。ある博士は臨終が近付いたにも関わらず、自然の風物にのみ関心を寄せて、真剣に往生を願わなかった。導師は思慮があったので、念仏を無理強いせず、博士が好む風流な話につきあった。そして、ころ合いを得て、現世の美景よりも、浄土の風景が更に優れていることを話した。博士は深く納得して念仏し、往生したという。最後に「臨終の善知識は、よくよく心を知るべきなり」という長明の評がある。
以上が数寄往生説話群の要約である。これらを通して分かるのは、数寄往生には必ずしも発心が必要とされていないということである。第六の七では、「かやうならん心は、何につけてかは深き罪も侍らん」という評語が、第六の八では、「これらを思へば、此の世の事思ひすてむ事も、数寄はことにたよりとなりぬべし」という評語があり、両者が長明によって往生の条件を満たす者であるかのように評されている。しかし、これらの説話の主人公たちはただ自分の好むことに情熱を傾け、一生懸命に行っているだけである。ここには往生に対する情熱もなく、二人には数寄を往生のたよりにしようという意識もない。また、この二人が往生を遂げたという記述もない。ただ長明一人が、数寄を往生のたよりになると思っているだけである。第六の九、四つ目にある評語にも、「おのづから生滅のことわりも顕はれ、名利の余執つきぬべし」とある。この評語と同じような記述が『教訓抄』にもあり、そこでは

すきものといふは、慈悲のありて、常にはもののあはれを知りて、あけくれ心を澄まして、花を見、月をながめても、嘆きあかし、思ひくらして、此世をいとひ、仏にならんと思ふべきなり
と記されている。『教訓抄』では「仏にならんと思ふべきなり」と、数寄者に対して発心を促しているが、『発心集』では「おのづから生滅のことわりも顕はれ、名利の余執つきぬべし」と、数寄者は発心をせずとも自然に発心の境地に至れるとしている。

この評語について、三木は

長明の背後には数寄と最終的に折り合いのつくはずのない仏教がある。先の引用文(第六の九、四つ目にある評語)によれば長明はそのことを十分認識していず、彼の自己批判の甘さに気付かざるを得ない(5)

と評している。

 確かに、自分の好きなことだけをやって往生できるというのは、少し虫が良すぎるようにも思う。この点について、長明はどう考えていたのだろうか。

 第七の五、二つ目の説話の主人公である博士は、まさに数寄者と言える人物である。しかし、この話では、数寄だけでは往生のたよりとはならない。美景に寄せる執着を、往生に対する憧れへと成就しなければ、往生できないのである。まさにこの説話は、数寄が執心となって、往生の妨げになる説話と読むことができるだろう。数寄が執心となって往生の妨げになる説話は『発心集』中に他にも出てくる。第一の七「小田原教懐上人、水瓶を打ち破る事 付陽範阿闍梨、梅木を切る事」では数寄ともとれる執着を断ちきった話が二つある。一つ目は、ほれぼれするほど見事な水瓶を手に入れた僧が、水瓶が盗まれないか心配になり勤行に身が入らないので、粉々に打ち砕いた話である。二つ目は、梅の木を愛した僧が自ら梅の木を斧で根元から砕き、上に砂までまいて梅の木の痕跡を消した話である。そして話末には「此等は、皆執をとどめる事を恐れけるなり。(中略)然れども、世々生々に、煩悩のつぶね、やつことなりける習ひの悲しさは知りながら、我も人も、え思ひ捨てぬなるべし」と、執着を捨てきれない自身を嘆く評語がある。
続く第一の八「佐国、華を愛し、蝶となる事 付六波羅寺幸仙、橘木を愛する事」では、逆に執心を断ちきることができずに往生できす、転生を繰り返した話が二つある。一つ目は花を愛した博士の話である。花を愛するあまり、博士は折々に打ち眺めたり、詩に作ったりしていた。博士の息子は花への執心が往生の妨げになるのではないかと心配されていたが、博士の死後、ある人の夢に、博士が蝶に生まれ変わっているということを聞いて、息子は罪深く思い、花を植えて蝶をもてなしたという話である。二つ目は橘の木を愛したあまり、死後蛇に生まれ変わって橘の木の下に住むことになった僧の話があり、話末に「念々の妄執、一々に悪身を受くる事は、はたして疑ひなし。実に恐れても恐るべき事なり」という評語がある。

 「我も人も、え思ひ捨てぬなるべし」と語る長明の心に浮かんだ妄執のうちには、管絃や和歌に対する情熱も含まれていたのではないだろうか。『発心集』において、苦行と易行という、相反する二つの概念があることは既に述べた。そしてここにも、数寄と執心という、往生に対して相反する二つの概念がある。『発心集』の矛盾を、どのように理解すればよいのだろうか。

 私はここで、第三の七の話末評

あふぎて信ずべし。疑ひて何の益かはある。しかるを、我が心の及ばぬままに、みづから信ぜぬのみならず、他の信心をさへ乱するは、愚癡の極まれるなり。

に注目し、この問題について考えてみたい。第三の七の話末評は、易行への否定というより、苦行を否定する行為の否定であるといえるだろう。それは苦行の肯定といえるが、広く勤行全ての肯定であると捉えることができるのではないだろうか。第六の十三話末評においても、長明は念仏の功徳を讃えたうえで

ただし、諸行は、宿執によりて進む。みづからつとめて、執して、他の行そしるべからず。一華一香、一文一句、皆西方に回向せば、同じく往生の業となるべし。水は溝をたづねて流る。さらに、草の露、木の汁を嫌ふ事なし。善は心にしたがひておもむく。いづれの行か、広大の願海に入らざらんや。

と記している。ここでも、第七の五、一つ目の話末評にも、「管絃も、浄土の業と信ずる人の為には、往生の業となれり」と記している。

 長明は第一の七、八、第七の五、二つ目の説話などから分かるように、数寄往生に批判が多くあるのを理解していたと思われる。しかしながら、当時おこなわれていた多くの勤行、苦行、易行にも批判があった。また、多くの行を積んだ者が往生できない反面で、たった一回の念仏で往生できる者がいるなど、往生には理解しがたい点も多くあった。『発心集』はそれら往生に対する様々な方法を収録し、「他の行そしるべからず」という編集方針によって貫かれていた。
長明は、在来の権威ある勤行にも欠点や矛盾があることを詳らかにし、またその欠点や矛盾を認めることで、数寄往生の欠点や矛盾をもあわせて認めてもらおうとしたのではないだろうか。例えば、原始仏教において釈迦は苦行を否定している。この点からいえば苦行による往生は仏教とは相いれないものと言うことができるだろう。「実に、多く百千劫の苦行、仏の御為には何かはせん」である。しかしながら、苦行には肉体の誘惑に打ち勝つという優れた点があるために、多くの人によって往生の行として認められているのだ、と『発心集』は答えている。この論理でいえば、仏教とは相いれない数寄も、現世を忘れ、理を深く知ることができるという利点があるために、往生の行とみなすことができるのである。

 長明は俗世の執着を全て捨て、過酷な行を勤める逐電遁世の出家たちを理想とした。しかし、長明は遁世出家してもなお、方丈の庵に、和歌・管絃の書物や、琴・琵琶を持ちむなど、数寄に対する執心を捨て去ることができなかった。数寄者でありながら往生を遂げるには、往生の行となるまで数寄の質を高めていくしかなかった。そのために長明は『発心集』において往生に適いうる数寄者たちの逸話を集め、数寄往生の論拠とした。それだけにはとどまらず、数寄が執心となり往生出来なかった話も載せる。長明は数寄往生の論理的弱さを知った上で、他の勤行にも欠点があることを指摘し、行の論理的完璧さが重要なのではなく、いかに自らが信じる行を熱心に行うか、が重要であることを説いたのだった。

卒論「『無名抄』の執筆意図 」第二章(2/4)

第二章『無名抄』の特色


第一節『無名抄』の特色

 まず、『無名抄』の特色を考えてみる。『無名抄』の特色として、
(あ)過去の出来事を注釈するにとどまること
(い)自己顕示が強く、自讃譚が豊富に記されていること
(う)数寄に関する話が多くあること

が挙げられるだろう。

 (あ)については、長明は『無名抄』において、自身の意見を述べる際にも、詳しく先人の例を述べており、自己主張が極端に少ないという意味である。同世代の歌論書と比較すると、その特徴がよくわかる。例えば、定家の『毎月抄』では、

哥の大事は詞の用捨にて侍るべし。詞につきて、強弱大小候べし。それを能々見したゝめて、つよき詞をば一向にこれをつゞけ、よはき詞をば又一向に是をつらね、かくのごとく案じかへし〳〵、ふとみほそみもなく、なびらかに聞きにくからぬやうによみなすがきはめて重事にて侍るなり。

と、自身の主義を述べるにとどまっており、なぜそのようにするべきであるのかが述べられていない。対して、引用した『毎月抄』と同じく、和歌の言葉遣いに言及する『無名抄』では、

歌はたゞ同じ詞なれども、続けがら・いひがらにてよくもあしくも聞ゆるなり。彼の友則が歌に、「友まどはせる千鳥鳴くなり」といへる、優に聞ゆるを、同じ古今の恋の哥に、「恋しきに侘びて玉しゐまどひなば」といひ、又「身のまどふだに知られざるらん」といへるは、只同じ詞なれどおびたゝしく聞ゆ。是は皆続けがら也

と、詳しく例を引いて述べている。松村はこのことに対して、

具体的典型的な事実談を提示することによって一般読者(といっても、歌よみを志望する者たちであろうが)を説得してゆくという解説パターンは、以下の八十にのぼる諸段においてもほとんど変わっていない。読者は、ほとんど事実からくる迫力によって、端的に長明の言わんとすることがらにうなずかされてしまうのである(1)

と評している。松村はさらに、長明が和歌に関する方向性を伴った理論的な方法、自己の歌人的立場を明確にうちだすという姿勢をとっていないことを指摘する。たとえば、『無名抄』四十九話「代々恋歌秀歌事」では、

今、これらに心附きて新古今を見れば、わが心に優れたる歌三首見ゆ。いづれとも分き難し。後の人定むべし。

と、断定を回避している。さらに、六十八話「近代歌躰事」では、結びで

しかあれど、まことには心ざしは一つなれば、上手と秀歌とはいづ方にもそむかず。いはゆる清輔、頼政、俊恵、登蓮などがよみ口をば、今の世の人も捨て難くす。今様姿の歌の中にも、よくよみつるをば謗家とても譏る事なし。(中略)されば一方に偏執すまじきことにこそ。

として、第三者的な中立の位置から身を投げ出すことはなかったとする。

 (い)については、他の歌論書と比較して、筆者が自分自身の体験を直接に語りかける話が頻出するということである。『無名抄』七十八話中、長明自身の歌が証歌として取り上げられている話も数に入れると

三話「隔海恋事」、      五話「晴歌一見人事」、
十一話「せみのを川事」、   十二話「千載集事」、
十三話「不可立歌仙教訓事」、 十六話「ますほの薄事」、
十七話「井手款冬蛙事」、   三十五話「艶書古歌事」、
四十話「榎葉井事」、     四十一話「歌半臂句事」、
四十七話「案過して成失事」、 四十八話「静縁こけ歌事」、
五十一話「歌人不可証得事」、 六十六話「会歌姿分事」、
六十七話「式部赤染勝劣事」、 六十八話「近代歌躰事」、
七十「故実の躰と云事」

があげられる。

 『無名抄』と同傾向の雑談的・随筆的な傾向を持っている『袋草紙』、『正徹物語』でも、著者自身が登場したり、自己の歌を語っている章段は数話であり、これほど多くはない。歌学書の筆者は言説を採録する立場にあるため、言説の外側に位置し、筆者本人が一話の主人公となったり、自己の歌について語ったりする例は稀である。

 (う)については、節を改めて詳しく述べる。


第二節『袋草紙』の数寄

 また、『無名抄』の特徴として、作歌論にとどまらず、歌語や歌詞の用法、歌枕や名所旧跡についての説話、歌人評、歌体論と、実に雑多な内容を有することは、先に述べた。中でも、『無名抄』は「数寄」と呼ばれる、和歌に偏執する人々の説話を多く載せる。このことについて、松村雄二は「全体的な統一感という点からいえば、清輔の『袋草紙』雑談部あたりの性質にならっているといってよさそうである」(1)としている。ここでは、『無名抄』がその体裁を参考にしたと思われる藤原清輔の『袋草紙』雑談部と比較して『無名抄』における特徴の一つである「数寄」について考えてみたい。

 『袋草紙』における歌人の数寄説話は、上巻に集中して現れる。顔が青白かったために「青衛門」のあだ名があった孝善は、少し愚かしいところがあったので、平服の際「私は勅撰集に入集した歌人なのだから、そのようなあだ名で呼んではいけない」といっていた話の後に、「昔より道を執するは興ある事なり」として、以降和歌に執着した人々の逸話を伝える。紹介される人物は実に三十人を超え、清輔の博識ぶりを伝える。しかしながら、『袋草紙』が伝える「道を執する」人々は、『無名抄』の数寄人とは異なり、「嗚呼」といわれるような、人に笑われる愚かしさ・狂気を有しているのである。

 「嗚呼」を秘めている人々の話を取り上げてみると、

(イ)顔が青白かったために「青衛門」のあだ名があった孝善は、少し愚かしいところがあったので、平服の際「私は勅撰集に入集した歌人なのだから、そのようなあだ名で呼んではいけない」といっていた話。
(ロ)九十日ある春を三十日しかないと和歌に詠んだことを指摘され、そのことを苦に死んでしまった長能の話。
(ハ)以言と斉名に文章生登用試験で作詩が課された際、具平親王が以言だけに助言をしたことを死ぬまで恨んでいた斉名の話。
(ニ)第三者によって自詠が褒められた手紙をわざわざ貰いに行き、錦の袋に入れて宝にした範永の話。
(ホ)明らかに劣っている自詠に執心して、判者に温情をかけてくれるよう頼んだ匡房の話。
(ヘ)月を見るために寝殿の南庇を閉めなかった輔親の話。
(ト)歌枕として有名な長柄の、橋造営時の鉋屑、また井堤の蛙だという干からびた蛙の死骸を、互いの土産とした節信・能因の話。
(チ)源経兼が国司だったとき、証拠不十分のため訴訟を受け付けなかった者をわざわざ呼び返した。不憫に思い何か物をくれるのかと思ってしぶしぶ蛙と、歌枕の説明をされたという話。
(リ)能因が小食で副食物を食べず、ご飯にふりかけのようなものをかけて食べていた話。
(ヌ)和歌六人党の内輪もめの話。

などを挙げることができる。能因に関しては、「嗚呼」の逸話が目立ち、特に(リ)に関してはもはや和歌と関係のない悪口のようにも思える。かといって能因に関して、「嗚呼」の面ばかりを記しているわけではない。『袋草紙』には、和歌の名所の前で下馬した能因に習って、俊頼や国行が下馬したり、身なりを整えたりする話があり、清輔はこの話に対して「殊勝の事なり」という評語を付けている。しかし、この話もどこか「そこまでするか」といった、秀歌に対する能因の狂気を感じ、前後の話との連環も相まって「殊勝の事」とは素直に感じにくい。

 「数寄」と「嗚呼」の関係については、三木紀人の論(5)に詳しい。三木によれば、「数寄者」という呼称は、時代によって意味が異なり、元来は「明るく軽やかで無責任な女たらしに対して、多少批判的なニュアンスを帯びて投げかけられた」が、それが中古から中世にかけて「自閉的でマニアックな者たちに冠せられるようになった」とする。そして、

歌壇の中心にいる人々は、いかに多くの情熱を持ち合わせていても「数寄」とはほとんどよばれていない。「数寄者」とは、孤猿風の暗さに隈取られているか「嗚呼」の趣があるか、いずれにせよ、どことなく異端な感じがある者を呼ぶ名だったのだろう。西行・長明の中に入るが、明らかに「狂気」の持ち主である定家が含まれないのはそのためかもしれない(5)

と「数寄」を定義している。『宇治拾遺物語』では「すきぬる物は、すこしをこにもありけるにや」(第十五ノ五)と紹介されており、「数寄」という概念は、現代でいう「マニア」や「オタク」というようなマイナスな意味も有していたと考えられる。

 数寄者を同情的に見ていた清輔も、決して積極的に数寄者に賛同していたわけではなかったことが、『袋草紙』の説話配列から見て取れる。『袋草子』上巻では、和歌の「道に執した」人々、即ち数寄者を紹介する話群ののち、和歌における盗作や失敗談、失敗した際の心得などの雑談が続く。そしてまた歌人の話に戻るのであるが、今度は公任の三船の才の話や、当意即妙に秀歌を詠んだ伊勢・永実の話が載る。常に滑稽さや狂気さを感じさせる数寄の人々の話とは異なり、いずれも巧みに歌を詠んだ人々で、どれも晴れがましい逸話である。それらの話のあとで、清輔の自讃譚が語られる。伊勢・永実に続き、清輔自らも当意即妙に和歌を詠んだ話と、「このもかのも」という歌語について、誰も思いつかなかった先例を訴え、歌合に勝った話である。見事な連環の構成であり、自讃譚がより効果的に映えるようになっているが、ここで注目したいことは、清輔が自身の自讃譚を「道に執した」人々の話群の中に置かなかったことである。感心な点もあるが、愚かしさが目立つ数寄者の話群と、手放しに評価することができる歌人の話群。この二つの話群のうち、自讃譚を後者に配置したことは、清輔が歌人として、数寄者たちよりも自身が高い位置にいると自負していたことを表しているのではないだろうか。それが言い過ぎだとしても、清輔は自身を積極的に「数寄者」と同列には語らなかった、ということはできるだろう。清輔は「能因の下馬の逸話」が示すように、数寄者に対して同情的であり、理解を示してはいたが、決して自身を「数寄者」とは呼ばず、一線を画していたのだった。


第三節『無名抄』の数寄

 対して『無名抄』はどうだろうか。『無名抄』は、

(ア)十六話「ますほの薄事」
(イ)十七話「井手款冬蛙事」
(ウ)二十八話「俊頼歌傀儡云事」
(エ)七十六話「頼実数寄」

において「数寄」の語を用いている。

 それぞれの内容を要約して見てみると、(ア)は、雨の日に歌人同士が集まって話をしていると、「ますほの薄」とはどのような薄なのかという話題になった。すると一人の老人が、摂津の渡辺にいる僧がこのことについて知っていると聞いたという伝聞を伝えた。これを聞いた登蓮はあわてて雨具を借り、雨の中を出掛けようとするのでその訳を聞くと、登蓮は今すぐその僧にますほの薄の話を聞きに行くのだと答えた。一同はあまりの突然さに、雨の上がるのを待ってから出掛けることを進めるが、登蓮はもし雨が上がるまでの間に、その僧が死に、もしくは私が死んでしまうかもしれないから、と反対を押して出掛けて行き、その薄について詳細を聞くことができた。非常な数寄者といえる。登蓮はこの薄の詳細を大切にしていたという。のちにこの薄についての知識は、三代目の弟子である長明に引き継がれることになった、という話である。

 (イ)は、「井出のやまぶき」「井出のかわず」という、有名な歌語を実際に見聞してきた人の話を聞いた長明が、ぜひ自身も井出を訪ねて実際に見聞きしてこようと思っているうちに、行かないまま三年の月日が経ってしまった、という回想譚である。最後に、登蓮が雨の中をあわてて飛び出したこととは比べようもない怠慢さであり、今の世の中の人は、昔の人に比べて数寄に対
する志と情趣が衰えている、という評語をつけている。

 (ウ)は、傀儡が俊頼の和歌をうたうのを俊頼が聞いて、自身の歌が広く人口に膾炙することを喜んだことをほめたたえる。また俊頼の話を聞き羨ましく思った永縁正僧は、琵琶法師に物を与えて自詠の和歌を方々で歌わせたので、世の人々は「有難き数寄人」とほめたたえた。さらに道因法師は、またこのことを羨ましく思って、今度は物も与えずに盲人たちに自詠の和歌を歌うように強要したので、世間の笑いものになった、という話である。

 (エ)は、源頼実は大変な数寄者で、自身の寿命のうち五年を献上する代わりに、秀歌を詠ませてくださいと住吉明神に祈願した。そののち数年たって重い病気にかかり、加持祈祷をしたときに、下女に住吉明神が乗り移って、頼実が以前「木の葉散る宿は聞きわく事ぞなき時雨する夜も時雨せぬ夜も」という秀歌を詠めたのも、以前住吉明神に祈願したおかげであり、今度はいくら治療の加持祈祷をしても助かることは難しいだろうという話である。

 これらの説話を見ると、『袋草紙』との大きな違いに気づくことができる。すなわち、『無名抄』で取り上げられている数寄は、『袋草紙』で取り上げられている数寄に比べて、滑稽さや愚かしさを感じさせず、数寄とは一線を画していた清輔とは異なり、長明は数寄にあこがれ、数寄を目指していたことなどである。『袋草紙』での「数寄」と、『無名抄』での「数寄」とには、隔たりがあるようだ。これらの違いは、どこにあるのだろうか。詳しく見ていく。

 (ア)の話において、登蓮の行動は、和歌の知識を得るために、不確かな情報を頼りに、雨天をも辞さずすぐさま出掛けていくという「真摯さ」「ひたむきさ」が「数寄」と定義されている。また、(イ)の話は(ア)の話の裏返しで、和歌の知識を得る手がかりを聞きながら、三年間も放置している長明自身を反省するという、「怠慢」が「数寄ではない」と定義されている。これらの数寄者には、『袋草紙』にあるような、「孤猿的な暗さ」「嗚呼の趣」などは感じられない。登蓮は和歌の知識を得るためならば、雨も、無駄足を踏むことも厭わない。その行為には努力や根性、情熱などといった形容がふさわしく、ひたむきな明るさがある。暗い「数寄」と明るい「数寄」、両者にはとても大きな隔たりがあり、同じ言葉とは思えない。

 また(イ)において、「登蓮が雨もよに急ぎ出けんには、たとしへなくなん」と、数寄者登蓮を尊敬し、自身も数寄者の列に加わりたいと考えている。(ア)においても、登蓮がつきとめた「ますほの薄」の正体について「この事、第三代の弟子にて伝へ習ひ侍るなり」と、自己と登蓮との繋がりをわざわざ注記している。数寄にあこがれ、自らも数寄者を名乗る長明の数寄観は、数寄と一線を画していた清輔の数寄観とおおきな隔たりがあると言えるだろう。

 (ウ)の話では、自詠を世に広めるために努力を惜しまなかった永縁が「いみじかりける数寄人」と称賛されている。それに対して、自詠をただ歌え歌えと責め立てた数寄者敦頼入道は、世の人の笑いものになっている。一見清輔と同等の、愚かしさを感じさせる数寄観を思わせる。しかし笑われている対象は、敦頼の方法であり、自詠を広めたいという目的ではない。笑われてはいるものの、敦頼の志は、永縁と同様「いみじかりける数寄人」と評することができるだろう。ここにも、努力や情熱を至上とする長明の数寄観を見て取ることができる。

 (エ)の話は、『袋草紙』にも同様の話が収録されている。『袋草紙』では、頼実が住吉明神に命と引き換えに秀歌を詠ませてくださいと請願し、ほどなく「木の葉散る」の和歌を詠んだが、評判は上がらなかった。その後また住吉明神に参詣し、同じ請願をしたところ、夢に「すでに『木の葉散る』という秀歌をよんでいる」という神託があり、この夢を見たのち、人々は一斉に「木の葉散る」の歌を褒め称えた。また頼実自身は六位の時に夭折した、という内容である。『無名抄』の話とくらべ、『袋草紙』では頼実の死の記述が少なく、また、神託の後急激に和歌の評判が上がる記述など、住吉明神の不思議な神徳が強調されている。『無名抄』と同様に、頼実の死を詳しく記す話は、『今鏡』に収録されている。そこでは、『袋草紙』の話よりも、臨終の様子が詳しく物語られ、頼実が和歌への情熱ゆえに命を落としたことがより印象に残るよう書かれている。長明はここでも情熱の描写をより重視し、『今鏡』の話を採用したものと思われる。

 また、木下華子は『無名抄』における連環を指摘している(6)。「頼実数寄」(七十六話)の話の前に配置されている「五日かつみ葺事」(七十四話)は、橘為仲陸奥在任のころ、五月五日に軒先に菰をつるしていることを疑問に思い問うと、在所の庄司が、昔藤原実方が在任だったころ、この地方には菖蒲がないことを聞いて、五月五日には菖蒲の代わりに菰を軒先につるすように指導したことから、この風習が生まれたと答えた話である。また「為仲宮城野萩」(七十五話)は、その為仲が上京の折に宮城野の萩を長櫃十二個に入れて持ち帰ったために、今日ではそれを見物しようと大勢の人が集まったという話である。これら二話は様々な説話集に収録されているが、木下はその中でも、長明がより為仲の和歌へかける情熱を記述した説話を収録している、とする。そしてこの三話が、「歌詞・歌枕への情熱」(七十四話、七十五話)から、「和歌への執心と行為の非日常性へ」(七十六話)へと連環していることを指摘し、「常軌を逸する、いわば典型的な」数寄のあり方である頼実の行為に結び付けることで、『無名抄』では数寄を「和歌への強い情熱が、歌枕・歌語への興味、秀歌願望という形をとり、現実に常軌を逸脱するほどの行為として結実したもの」と定義しているとする。

 長明は数寄と、和歌の理想を分けることなく、数寄こそが、歌人として目指すべき境地であると定義づけた。そして、長明自身も『無名抄』における代表的数寄者である登蓮の、三代目の弟子として数寄者の系譜に身を連ねた。

 『袋草紙』にみられるように、数寄者を他の優れた歌人とは一線を画さず、特別扱いしない点に、『無名抄』の大きな特徴がある。長明にとって、数寄には特別の思い入れがあったことがうかがえ、自身が数寄者であることを記さずにはいられなかったことがうかがえる。ここに『無名抄』執筆にいたった一因が存しているのではないだろうか。

 なぜ長明は好評ばかりとは言い難い数寄の概念を再定義し、自らをその流れの中においたのだろうか。次に数寄とかかわりの深い『発心集』から、長明の数寄感を追っていきたい。

卒論「『無名抄』の執筆意図 」序章(1/4)

このたび成績発表があり、無事卒業が決まった。卒業にあたって執筆したのが下記の論文である。


『無名抄』の執筆意図


序章 長明と和歌

第一節 問題提起

 『無名抄』は、建暦二年(一二五八)ころ、鴨長明によって、日野の山荘において執筆された。具体的な執筆時期は不明であるが、『発心集』や『方丈記』と同時期の著作と考えられている。題詠の心得から説き始める『無名抄』は、作歌論にとどまらず、歌語や歌詞の用法、歌枕や名所旧跡についての説話、歌人評、歌体論と、実に雑多な内容を有し、その性格から「歌道随筆」とも評されている。松村雄二はその執筆意図を、

『無名抄』における長明の本来の意図は、やはり、歌道上の興味ある事象を、自分の経験的な判断に従って書き残してゆくといった点にあったとみるのが無難であろう(1)

と推測している。『方丈記』にも日野の草庵に和歌・管絃・往生要集などの書き抜きをした書物を持ち込んでいたことが記されている。和歌についての研究を出家後も行っていたことがしのばれ、この推測は妥当であると思う。
 しかしながら、『無名抄』執筆の意図は、『無名抄』にも、『発心集』、『方丈記』にも書かれてはいない。長明は歌道の家に生まれたわけではなく、また歌道の弟子を持っていたわけではなかった。長明が『無名抄』執筆にあたって影響を受けたと考えられる『俊頼髄脳』は、藤原忠実の依頼で、その娘勲子のために執筆されたことが伝えられており、その執筆意図は明確である。また『袋草紙』を著した藤原清輔は、御子左家とともに二大流派をなしていた六条家の当主であり、清輔の歌学を門弟に伝授する目的があったものと思われる。また『袋草紙』はその評判から二条天皇から紙料を賜るなど、清輔や六条家の名声を上げることにも役立った。しかし、長明の『無名抄』は明確な読者を想定することが難しく、また和歌所寄人の職を投げ打って出家した長明に、『無名抄』の執筆による名声獲得の意図があったとは考えにくい。そんな長明がなぜ、『無名抄』を書き上げたのだろうか。
 本論では、他の歌論書、また『発心集』の記述などから、『無名抄』執筆の意図を考察する。


第二節 歌人としての長明

 考察に入る前に、歌人として長明が歩んだ経歴を追っていきたい。
 現在伝わっている中で最も古い長明の歌作は、父長継の死を詠んだ歌である。承安二年(一一七二)の冬から翌年の春までの間に、長継は没したと考えられている。長継は異例の出世を遂げた人物で、二十三歳の時すでに下鴨社の正禰宜であり、従四位下を賜っていた。長継の死亡当時、十八歳前後だった長明は、

   父みまかりてあくる年、花を見て詠める
 春しあれば今年も花は咲きにけり散るを惜しみし人はいづらは

など、数種の歌を詠んでおり、日本古典全書『方丈記』には、『赤染衛門集』の和歌、

  たれ見よとなほにほふらん桜花散るを惜しみし人もなき世に

が参考歌として挙げられている。三木紀人は、

この種の歌を念頭においての詠だとすれば、まだ十代終わり頃だったとおぼしい長明に、後年の歌人ぶりの芽ともいうべき、それなみのたしなみがあったことになろうし、歌人長明の形成に父があずかっていたらしいこともうかがえる(2)

と推察している。歌人長明の形成に、父の死の影響があったことは、後年の出家のことを思うと印象深い。何不自由なく成長した長明にとって、偉大な父の死の衝撃は計り知れなかったようで、自殺をほのめかす歌を数首残している。
 最初期の頃、長明が公式な歌合に出席したときのエピソードが『無名抄』に収録されている。安元元年(一一七五)高松女院の北面の菊合、長明二十一歳のことだった。ここで長明は提出する予定だった歌を、歌人の勝命入道に見せたところ、字句の不吉さを指摘された。そこで別の歌を提出して事なきを得たという。長明が歌を見てもらった勝命入道は藤原親重といい、父長継の友人であった。二人は和歌同好の士であり、小歌壇が形成されていたらしい。
 養和元年(一一八一)には『鴨長明集』が成立する。長明二十七歳頃のことで、それまでの自作和歌百五首が収められている。二十七歳というのは家集を編纂するには若すぎる感があるが、このころ、上賀茂社の賀茂重保が、三十六人から百首の歌を集める企てをしており、そのための自選集であったと思われる。
 長明の和歌の師は、歌林苑を主宰していた俊恵法師である。しかし、いつ頃から長明が俊恵に師事していたかを記す史料もなく、また俊恵の没年も不明のため下限も決められず、はなはだ漠然としている。『日本古典文学大辞典』では、『鴨長明集』について「稚拙なものを含むが、全体に歌林苑風の優美平明な歌が多い」(3)とし、俊恵の影響を認めている。しかし、三木紀人は「『鴨長明集』の内にも外にも、師匠俊恵の影らしきものが見られないことからすると、長明が(俊恵の)弟子となったのはその成立以降ではないかと疑われる」(4)とする。『鴨長明集』には、和歌の知識の上に詠まれたものが多く、俊恵の影響の有無は不明であるが、和歌への真摯な取り組みが見て取れる。
 歌林苑には、中下流貴族や武士、遁世者といった上流サロンに列する機会が比較的乏しい者が多く、年配者が圧倒的に多かった。先に挙げた賀茂重保も歌林苑のメンバーであり、長明は彼らの教授を受けながら、才能を伸ばしていった。文治三年(一一八七)には、勅撰集である『千載集』に一首入集し、非常に喜んでいる。長明三十三歳のころ。その喜びかたの素直さを、琵琶の師中原有安に褒められた逸話が、『無名抄』に載る。
 しかし、その後師俊恵や有安など長明を庇護してくれた者は死んでゆき、長明の活躍をたどることが難しくなる。自然解消になったと思われる歌林苑ののち、長明は他のグループに属すことなく、ひとり和歌の研鑽を積んでいたと考えられている。
 そんな長明の転機となったのが、正治二年(一二〇〇)以降の和歌の隆盛である。長明は後鳥羽院の恩顧のもとに歌人として頭角を現すこととなった。長明は院の下命による『正治再度百首』の歌人に列したことを皮切りに、建仁元年(一二〇一)には後鳥羽院が再興した和歌所の寄人に任じられる。数々の歌合せに出席し、優秀な歌人たちと交わる中で、自らの才能を磨いていったようである。和歌所の数名に『新古今集』撰進の命も下り、長明は献身的に奉職したという。『無名抄』には「御所に朝夕候ひし比」と、このころの献身的な奉職ぶりを回想している。
このころの長明の活躍を示すのが、建仁二年(一二〇二)三体和歌会での出来事である。「春・夏」「秋・冬」「恋・旅」という詠題から、後鳥羽院歌人の力量を図るという意図から開かれたこの歌会は、多くの者が病気などを理由に欠席した。長明を含む六名のみが出席し、長明はおおいに面目を施したという。長明四十八歳の出来事だった。あくる建仁三年(一二〇三)には、和歌所の面々による二度の花見が行われる。長明は参加の人々と和歌連歌し、帰りの車でも余韻絶えず家長らと笛を吹いたことが伝わる。『新古今集』撰集事業も大詰めを迎えていた。
 しかし、歌壇における長明の活躍はこの年を以て終わる。あくる元久元年(一二〇四)に長明が遁世してしまうためである。この遁世については諸説あるが、河合社禰宜職の継承争いに敗れたためとされている。後鳥羽院は長明の献身的な出仕のために、欠員が出た河合社の禰宜に長明を就任させようとした。しかし、下鴨社惣官の佑兼から猛反対にあい断念、後鳥羽院はあらたに「うら社」という神社を官社とし、そこに禰宜と祝の職を設けて、長明に禰宜の位を与えようとした。破格の待遇であり、長明がいかに精力的に勤めていたかを物語るエピソードだが、長明はこの案を拒否。父と同じ下鴨社惣官にあこがれていた長明にとって、そのステップである河合社禰宜になれなかったことで、将来の官途に絶望したためと言われている。その後大原で出家。出家後に完成した『新古今集』には十首入集。その後日野の方丈に移り住み、『無名抄』を完成させた。


第三節『無名抄』執筆意図に関する主な研究

 『無名抄』執筆意図について考察した論文には、左のものが挙げられる。論文では(ア)、(イ)の論と、(イ)(ウ)の論、二つのグループに大別される。
(ア)松村雄二「『無名抄』の〈私〉性」(『紀要』第十九号、共立女子短期大学(文科)一九七五年十二月)
(イ)木下華子「『無名抄』の再検討」(『国語と国文学』第八十巻八号、東京大学国語国文学会、二〇〇三年八月)
(ウ)横山一美「鴨長明の数寄―『発心集』と『無名抄』の関連において―」(『二松学舎大学人文論叢』十五号、一九七八年三月)
(エ)村越英裕「『無名抄』の成立に関する一考察」(『二松学舎大学人文論叢』十七号、一九八〇年)
(ア)、(イ)の論は、『無名抄』を長明の自己実現の文学であったとするものだ。
(ア)の松村雄二の論文では、『無名抄』において、長明は和歌に関する諸事象を理念的に裁断し、そこに自己の歌人的立場を明確にうち出すということをせず、具体的経験的な事実の伝達者として自己の立場を忠実に固守している点を指摘する。その理由については、和歌という自己の才能によって、当時の最高の貴族文化圏へ加入することができたが、そのことを理由に出世への道を妨害された過去にあるとする。「〈妄念〉に満ち、世俗の虚栄に踊らされた挙句に見事に失敗した者の、二度とそういう姿勢で物事を誤ることをしまいといった、底深い断念に由来している」とする。しかしながら、『無名抄』には長明自身が主人公になる説話が頻出し、その中でも長明が結果として周囲から面目を施した例を語る話が圧倒的に多い。松村は、長明は自己を殺しきれなかったとし、「『無名抄』は、自分に恨みを与えた世間に対して、実は自分はその世界でこれだけの事をやったのだという自賛の書であった」と結論付ける。
(イ)の木下華子の論文では、和歌を理由にする出世妨害の他に、長明が歌壇での評価が高くない点や、長明が当時歌壇を席巻していた「新風」についても理解できていなかったであろう点を挙げ、長明と和歌との関係を、「長明が和歌に打ち込んだ時間の長さ、思いの深さに相反するように、現実の出来事は和歌と自らの関わりを負の側面へと追い込んでゆく」ものであるとした。そんな長明にあって、『袋草紙』の構成を巧みに用いながら、自賛譚を巧みに構成した『無名抄』は「和歌世界における自らの営為を意味あるものとして残すという長明の自己現実の文学だった」と結論付ける。
 一方、(ウ)、(エ)のグループは、『無名抄』と「数寄往生」との関連性を指摘するものである。
(ウ)の横山一美の論文では、長明の説く「数寄」という概念が、所詮「執心」なのではないか、という問題が存在しているとする。その問題に対して長明が用意した答えが、『発心集』での数寄往生説話群であるとした。即ち、一心に数寄に心を凝らすということが、世間から逃れ、名利から遁走する一つの方法としてとらえられ、それは仏道修行と同じことになるのではないかという考えである。
(エ)の村越英裕の論文では、『無名抄』の幽玄論である、「詮はただことばにあらはれぬ余情、姿に見えぬ景色なるべし。心にもことわりふかく、言葉にも艶きはまりぬれば、ただ徳はおのづからそなはるにこそ」に着目する。そして、『無名抄』のなかに、多くの和歌に偏執した人々の話を収録する点を指摘し、長明の説く「不可視的に存在する深遠な美に感動する和歌的美意識」を見に付けるための方法が、「和歌を通しての生き方」の中に描かれているとする。さらに、『発心集』の数寄往生説話と関連付け、『発心集』を数寄往生の理論書であると定義し、『無名抄』は数寄往生の理論に基づいて記された和歌の教本であると結論付ける。
 いずれの論も、『発心集』『方丈記』、また長明の生い立ちから論を進めていくにもかかわらず、二つの異なる結論に至っている。はたして『無名抄』は自己肯定の「自讃の書」なのだろうか、それとも、往生と数寄との葛藤から生まれた「数寄往生論」なのだろうか。

銭湯の魅力 広島旅行雑感

 02月13日から2泊3日で、卒業旅行に一度行きたかった広島へ行った。大学では中世文学、とくに『平家物語』を専攻したので、宮島の厳島神社にはぜひ行ってみたかったのだ。「卒業旅行」とはいうものの、恥ずかしながら卒業できるかどうか非常に危うい。私は大学入試を一度失敗しているので、今年は大厄でもある。厳島神社という大きな神社で厄払いをしていただき、卒業へ少しでも望みをつなぎたいという願いもあった。

 広島はあいにく3日間とも天気は優れず、傘をさしながらの観光となってしまった。「土・日は(私たちは旅費を安くするために月曜から旅行に行った)本当にいいお天気だったのですが」と宮島のみやげ物屋に労われ、しみじみ悔しかった。木曜日からまた晴れるという予報も大層皮肉である。とはいえ、お天気には敵わないし、雨と言っても悪いことばかりではない。雨にぬれる原爆ドームは、それは印象深かった。平和祈念館は涙なくては見ることができない。原爆に焼かれた衣服が多く展示されているのだが、それぞれその持ち主がいつどこで被爆し、どうなったかがそれぞれ詳しく書かれている。即死以外は家族に見守られながら、被爆から数日後に亡くなっているのだが、中には「見守る家族も次々に倒れ、ついには一家全滅となった」というものもあった。雨は哀しい記憶によく似合う。浮ついた気持ちではなく、しっとりとした心で「ヒロシマ」をみることができたのはよかったとおもう。
 また、宮島では厄払いをしてもらった後、それまで降っていた雨が晴れ、神威の程を見せつけられた。しかも厄払いした後にひいたおみくじは、数年ぶりの大吉である。いわく、「何事もよき事をさすず(ママ)と事ことなし」。宇佐八幡は滅亡する平家を見捨て、「世の中の宇佐には神もなきものを何祈るらん心づくしに」という神託を下された。厳島の神はいまだ私の卒業をお見捨てになられていない。一縷の希望である。

 とまぁ雨のおかげでいいこともあったが、いかんせん傘をさしながらの観光は疲れる。旅行の前日に「穴だらけのスニーカーではとても雨の広島を歩けまい」ということで靴を買いかえたこともあり、ひどく疲れた。こんなときにビジネスホテルのユニットバスに入ろうという気はとても起きない。という訳で、事前に調べておいたホテルの近所の銭湯のうち、一番近い土橋温泉へと向かった。

 ビジネスホテルに泊まるときは、少し遠くても銭湯に行くことをおすすめする。銭湯は旅館やスーパー銭湯より格段にあたりはずれの落差が大きい。ひどい銭湯は、入った後の方が汚くなるようなところもある。はずれを引いたときのことが怖くて、以前は銭湯にいくことなど考えもしなかったが、最近「それも旅の思い出だ」と思うようになった。またはずれを恐れずにあたりを求める行為はどこか冒険めいていて、非常にいい思い出になる。

 今回の土橋温泉は番台のある昔ながらの銭湯だった。トイレが店の外にあったりして多少イレギュラーではあるが、100円で入れるサウナがこのマイナスを補って余りある。むくんだ足には嬉しいので迷わずサウナを希望した。ちなみに広島の入浴料は一律400円だった。体を洗ってからサウナに入ろうと思い、ルンルン気分で頭を洗っていると、背中に見事な龍の彫り物をした人がサウナに入って行った。これには困った。サウナは小さく2畳ほどの広さで3人入ればやっとである。そこでこの龍の兄ちゃんと二人っきりになるのは、とても良くないことのように思われた。広島を舞台にした「仁義なき戦い」はあまりにも有名である。ちょっとためらったが、吝嗇家の私は先ほど払った100円が惜しくてならない。勇気を出してサウナに入った。龍の兄ちゃんは足を多きく投げ出してサウナを満喫していた。最初はこわごわと小さく座っていたが、雨に打たれた体がサウナによって温まるうちに、気持ちが大きくなっていった。途中龍の兄ちゃんが矢吹ジョーのような姿勢でうつむいたので、じっくりと彫り物を鑑賞したりしていた。

 サウナに入りながら、卒業できなかったらどうしようということばかり考えていた。せっかくの旅行なんだから、そんなこと忘れて楽しもうと思うのだけれど、楽しければ楽しいほど、ふと「留年したらどうしよう」と思ってしまう。電車での移動のときやトイレに入っているときなど、所々で思いだしてしまって困った。
 よく「結果がすべてだ」という人がいる。どんなに手を抜いても、結果さえ出せれば良いという考えだ。なるべくすくない努力で結果を出すのが良く、どんなに努力しても結果が出なければ意味がないということになる。何を隠そう私がこの主義の持ち主で、なるべく少ない出席回数、受講数で単位を得ようとしていた。その結果がこれである。何事も楽をしようと思ったらそれなりのリスクを背負わなければならないのである。今回のことでとくと思い知らされた。私にはそのリスクは荷が重すぎる。これからはコツコツとしっかりやって行こうと思った。こう思うと留年の恐怖も薄くなってきた。留年したらしたでしょうがないじゃないかという開き直りである。留年したらちゃんと両親に謝ってちゃんともう一回就活してちゃんと生きていこうという変な決心をしていたら龍の兄ちゃんが先に上がったので私もサウナを出た。

 脱衣所で着替えていたら、新しく入ってきた二人組の兄ちゃんにも彫り物が入っていた。今度はちょっとしゃれていて、わき腹に菊が3本。初めて見る意匠だった。初めて見る意匠と言えば、番台の上に飾ってあった招き猫が珍しいものだったので写真に撮らせてもらった。なんと足を組んでいるのである。番台のおばちゃんに撮影の許可を求めたら「高いところに飾っているからほこりがかぶってなぁ。拭いてあげような」と丁寧に拭いてくれた。写真がその招き猫であるが、この写真の下方でおばちゃんが写らないように小さくかがんでいる。もっと引いておばちゃんごと撮ればよかったなぁと後になって思った。